昭和45年 4月17日 夜の御理解



「激動の今こそ教祖の道に生きぬかん。道の、道の実現としての会堂御造営成就を祈願」と言うような見出しが出ております。激動の今こそ教祖の道に生きぬかん、教祖の道に生きぬかん、どういうような事あろうかとあたし思うんですね。えー、教祖に帰れとか、あー、ここに教祖の道に生きぬくと言ったような言葉が使われますけれど、実際に教祖に帰るという事、その道に徹するという事はなかなか難しい事だと思いますよね。

うーん、先日、ある方が夜の御祈念にお参りいたして、毎朝参ってくる方なんですけど、なかなか良い信心をなさいますが、その方は、そのー、時々ほんとに神様がホロリしなさるような事を言われるですね。言わば、ね、もうそれは嘘ではないらしい、やっぱ実感ですから。その時も、んー、ある近所の方が、あー、病気をしておられると言う、もうほんとに子供さんが何人もあるのに見るに見かねて、まあ、その日、夜もお参りになったんですね。

それで、「あたくしその方の、そのー、難儀をしておられる状態を見らして頂いたら、あたくしがどげな修行をしてもよいと思います」とこう言う。ね、だから朝参りこの夜のお参りにはこれからその方のためにでも、一つお参りをさして頂こう、「まだ他にでもこの人の助かって下さる事のためなら、どげな修行したっちよかと思います」とこう言うわけなんです。嘘ではないやはり実感は実感なんですから。

ね、ですからほんとに神様がほんとこう振り向きなさるような素晴らしい事なんですよね実は、ま、ホロリしなさるような感じです。ところがその方は、その晩ぎり、その日一日お届けをされたぎりで、えー、毎日お日参りはあっておりますけれども、いわゆる(?)参ろうと言う事は無い。あたくしはね、教祖の道に生きぬくといったような事をね、んー、そう言う例えば、あーその、自分が、あー、そのー、言うておる事が行いの上にほんとに実意丁寧に表わされていく事だと思うんですよ、ね。

ではここには、その教祖の、おー、道に生きぬかんと言う事をです、いつ、道の実現としての会堂御造営のための祈願、という事になっておりますから、言うなら「会堂御造営のために一修行させて頂こう」と念願し、発願したならば、あたしはその念願を出すね、貫く事のために、修行がやはり貫かれるような信心こそ、あたしは教祖の道に生き抜かんと言うような、生き抜く事だと言う風に思うんですよね。

なかなか、あー、その実感的に言われる、それもまた嘘ではないその時には、この御造営の時でもそうであった。もうあたくしは何十年かかったっちゃ、一生かかったっちゃ、この御造営の、おー、事のために、いー、奉仕したいという願いを掲げ、立てあげた。やっぱりその時には、ほんとにまあかわいらしい事を言われると誉めて、(あらつかさん?)宅に説教でお話した事もありました、その人の名を挙げて。

ね、例えでけんでも、そう言う思い方はほんとに有り難い、けれどもほんとに今なんかずいぶん都合よういっておられますけれども、これは御造営の為にと言うて御造営にお供えされる事はなか。だからね、言う事だけは易いと言うが、言う事も嘘ではない、それはほんとに神様をホロッとさせるような事を言うたり思ったりしましてもね、それが実意丁寧に実行されていくと言うような生き方、そういう道こそあたしは教祖の道に生きぬいておる人だと言う風に思うんですがね。どうぞ。



明渡徳子
2005年6月7日